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バロン吉元の映画悪党伝

1976年5月上旬号より映画誌「キネマ旬報」に「ハリウッド悪党伝」・「ギンマク悪党伝」として連載され、のちに単行本化された『映画悪党伝』をご紹介します。

はじめに・・・悪役こそ人間の本音を語る

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<はじめに>

悪役こそ人間の本音を語る

 

 元始、私は太陽の如く輝く情熱豊かなピッカピカの映画少年だった。いま、悪役にうつつをぬかすブラック・ホールの如き凝縮したドス黒いベッタベタの映画ファンである。なぜ悪役が好きなのか?あくが描かれていない映画は面白くないからである。いかに悪が濃厚に描かれ、いかに悪が鮮明に躍動しているか、それが私の映画鑑賞におけるひとつの目安になっており、映画を評価するうえにおいてのバロメーターでもあるのだ。

 ちなみに面白かったと思う映画をいくつかあげてごらんなさい。そこにはたいてい悪が描かれているものなのだ。ミュージカルの傑作『ウエストサイド物語』にもドロップ・アウトした反抗期という名の悪が描かれていたし、『サウンド・オブ・ミュージック』にしても戦争悪と戦う一家の物語であった。映画を製作する側に怒りがあればそれは製作上の大きなエネルギーとなって爆発し、昇華されて、必然的に悪を表現しきった面白い作品として完成されるに違いないのだ。もっとも昇華しきれない作品が多いのも事実だけど、ともあれ私は悪の描かれたアクション・スペクタル物は大好きである。だから私は、悪の臭いのしないメロドラマを観るためにわざわざ映画館へ足を運ぶようなことはめったにないのだ(自慢にはならないけど)。

 社会悪、個人悪、あらゆる悪と戦うにはどうすればよいか、戦争悪を個人で防げるか、体制悪に個人で立ち向かう勇気があるか、暴力団が襲ってきたらどうするか、それは個人的には非力であるがゆえに実に困難なことである。そこでわれわれは映画という芸術の中で悪が退治されるのを観て、カタルシスを得る仕組になっているのだ。勧善懲悪物が、いつの時代でも国民に愛される根本的な理由はそこにある。

 しかし世の中が物情騒然たる危機をはらんで激動してくると、ちょっと様子が変ってくる。人々は現実的な重圧感から一時でも解放されたいために、お笑いものや、幻想的なものを求めて移行し、シリアスに悪を追及する作品は片隅に追いやられてしまう。

 そういう時が悪役にとっては正念場だろう。悪役がふんだんに登場し、大いに活躍する場が与えられているという時代こそ、平和という名の休戦期間というべきか。果してどっちの時代が良いか、それは問うまい。

 それにしてもユニークな悪役を演ずる俳優が少なくなったのは淋しい。どの映画を観ても限られた少数の俳優によって悪は演じられている。その代表格が成田三樹夫佐藤慶小池朝雄、今井健二、草薙幸二郎という悪役スターとして尊敬に値する大物たちだ。

 日曜のTV番組『お笑いオンステージ』のコーナーに“減点パパ”というのがあるが、これに今井健二親子が出演したのを観たことがある。この時の今井健二は眼鏡をかけて終始ニコニコ、利発な息子さんの親父評に大いに照れていた。映画やTVドラマで観るような今井健二の姿はそこにはない。なるほど、スクリーン・オフの今井健二という人はこのような好人物だったのかと改めて感心した次第だが、確かに強烈な悪のキャラクターでスクリーンあるいはブラウン管を通してわれわれにお馴染みの俳優さんには、私生活を全く感じさせない芸の凄みというものがある。中でも、特に成田三樹夫のイメージは私にとって不可解な存在だ。そこで私はこの『映画悪党伝』の中では彼をエスパーとして扱ってしまった。それだけ彼はプライベートを感じさせないスターなのである。スクリーン・オフの日は、いったいどうやって過ごしているのか、家族はあるのだろうか、糞を一人前にするのだろうか、と余計なことまで考えてしまう。それがファン心理というものだろう。

 私は映画の中に悪を求め、その悪を演じる俳優さんたちにいつまでも声援をおくりたい。なぜなら、悪役こそ人間の本音を語る最も大事な部分だからだ。よって、この『映画悪党伝』は映画の中における悪役讃歌であり、そんなピカレスク・ロマンが大好きな一人の男の幻想なのである。

 

バロン吉元